連載 No.35 2016年07月31日掲載

 

美しい砂浜に魅せられて


1980年代の頭、通っていた写真学校の課題に日々追われていた。

帰省した時には高知の海岸を撮影していたが、

自宅には車がなかったので行動できる範囲は限られていた。



高知の人は世話好きが多い。

「最高の撮影場所があるから連れて行ってやる」と声をかけてくれる人がいて、

親切にも車で連れて行ってくれたが、まったく興味が湧かなくて困った。

儀礼的に1枚撮ってはみたが、「きれいに撮れたか?」

「そうじゃなくて、ここから撮らんといかん」とあれこれうるさい。

申し訳ないのだが、ちょっとめんどくさい思いをしたこともあった。



そんな学生時代、国鉄の周遊券を使うことを思いついた。

当時の周遊切符は使用できる期間が長く、春や冬の休みには利用する学生が多かった。

この切符で帰省して列車で撮影に出掛けると、四国内は運賃がかからない。

日帰りでも行動範囲はぐっと広くなる。

そして、いろいろ調べて出掛けたのが、高校時代一度訪れたことがあった入野海岸である。



カメラと三脚、小さな脚立と、けっこうな荷物を持って入野駅を降りた。

農道を歩くと松林があり、その向こうには砂浜が広がっていて、記憶の中の光景がそのままあった。

やさしい波がどこまでも寄せては返し、美しい砂浜に空が映り、現れては消えてゆく。



砂と雲に魅せられて、以来何度も通った。

しかし実際に撮影するとなかなかイメージ通りにいかない。

足元の砂と空の雲。距離、状態の異なる二つの空間は、肉眼とレンズの描写に大きな隔たりがある。

ダイナミックな絵柄を想像して撮影しても、現像したフィルムにはかすかなムラが写るだけだった。



個人差はあるが、肉眼では水に映った雲と砂の表面を別々に把握し、脳の中で合成して認識している。

それに対してレンズの描写は両者を同時に均等に記録する。

例えば、ショーウインドーに写った町並みと、ガラスの中のマネキンを同時に見ることは難しい。

足元の水たまりの中に空を見ているときにも同じようなことが言える。

距離や輪郭で影響は異なるが、撮影してみると記憶とは食い違い、

何か余計に写っていたり、見えているはずのものが写っていなかったりする。



自分にとって、レンズに写ったものが全てである。

見えているけれど写真に写らないもの、

「写真には写りにくい」と言われる対象を、どのようにして作品にするのか。その課題を今でも追っている。



何が美しいのか説明できないのに引き寄せられるもの、

どこが?と聞かれても答えられない直覚的な魅力。その表現に写真の独自性を見る。

失敗続きの入野海岸で仕上がったのはこれ一枚。映りこむ太陽に救われた。